“働くしかなかった”から始まった、私の障害児育児|第1章

我が家の家族史

先天性心疾患の赤ちゃんと過ごした9ヶ月育休は“看病”のためだった

介護の仕事って、お給料そんなに良くないことは周知の事実。
だから私は結婚しても。妊娠しても、たぶん働き続けることになるだろうなって思ってました。
それで、最初から託児所がある職場を選んで働いておりました。

そんな職場は、働くお母さんが圧倒的に多くて。その点では安心感がありました。

でも、まさか“あんな育児”になるとは、全く予想はできませんでした。


緊急帝王切開で、生死をさまよう出産

長男は個人病院での出産。けれども出産直前に急変して、緊急帝王切開に。

しかも私はその手術中に心停止
もうダメかと思ったと、あとから家族から聞かされました。
でもなんとか死亡宣告ギリギリで心拍再開。これまた幸いなことに後遺症も残らなかったのです。

だけど、産まれた長男はすぐに容体が急変。
救急車で総合病院へ搬送。
私は動けないままベッドに取り残されて、夫だけが自家用車で救急車を追いかけて行きました。


10日間、会えなかった母子

それから10日間、私と長男は別々の病院で過ごさなきゃならなくなりました。
その間私はベッドの上で、必死に搾乳。
「初乳を届けたい!!」それだけが心の支え。

でも、帝王切開のあとはなかなか母乳が出ず。(身体が出産に気づきにくいんだそうです)
乳房マッサージして、泣きながら搾乳してた。
心も体もボロボロだったけど、「あの子のため!」って思うと頑張れちゃう不思議。

病院中が親子でいっぱいの中。孤独感に耐えながら過ごす母親を経験しました。

疎外感が半端なかったのだけは覚えています。


NICUで始まった、命を守る育児

長男は「先天性三尖弁閉鎖症」という重い心臓の病気でした。

三尖弁閉鎖症とは?

三尖弁閉鎖症は、生まれつき心臓の右側にある「三尖弁」が形成されていない、または完全に閉じている状態の先天性心疾患です。

通常、三尖弁は右心房と右心室の間にあって、血液が右心房から右心室へ流れる通路として機能します。しかし、この弁が閉じているため、右心室が発育せず、肺に血液が流れにくくなります。


主な原因

三尖弁閉鎖症は先天的(胎児のときから)に発生するもので、遺伝や妊娠中の環境因子(ウイルス感染、妊娠糖尿病など)との関連が指摘されていますが、多くの場合、はっきりとした原因は特定できません。


症状

多くは出生直後から以下のような症状がみられます:

  • チアノーゼ(唇や皮膚が青紫色になる)
  • 呼吸困難
  • 哺乳不良、体重増加の遅れ
  • 疲れやすい

チアノーゼは、肺に十分な血液が送られないことによる酸素不足が原因です。


NICUに入って、点滴やモニターに囲まれて。全身を管でつながれていました。そして生後2週間には心肺の血流確保のためにオペを受けました。
「この子はどうなってしまうのだろうか?」
そんなことばかり考えている初めての育児のスタートでした。

育休を取ってたけど、それは「育てるため」じゃなくて、「生かすため」の時間の確保。      24時間付き添い入院も約3ヶ月経験。産後すぐの心身には辛かったです。

内服薬は嫌がって暴れるから、押さえつけて飲ませるのがとにかく辛かった。
泣くと酸素が足りなくなってチアノーゼになるから、泣かせると命の危険が。だから私は、泣かせないように、ずーっと抱っこしてなきゃなりませんでした。
夜中も顔色を確認できるように、枕灯を一晩中点けたまま。急変が怖くて毎晩ほとんど眠れない日々でした。

ちゃんと眠れたのは、誰かが長男を見てくれてるときだけ。

そんな中で、実母がすごく支えてくれました。
長男を抱っこしながら泣いてる私の横に、黙って座っててくれたり。
通院や付き添いもできる範囲で手伝ってくれ。毎日ご飯を作っては運んで食べさせてくれました。
心も体も、あの頃の私は、母にすごく助けられてました。本当に感謝しかありません。


9ヶ月で、静かに旅立った

長男は何度も入退院や手術を繰り返し。それでも一生懸命、生きてくれて。           私私や周囲を「こんなにかわいい、愛しい存在があるんだなぁ」と幸せいっぱいにしてくれました。

<span class="marker-red">なちょぱ</span>
なちょぱ

子どもってこんなに可愛いもんなんだ!絶対守ってみせるんだ!

そんな思いや頑張りもむなしく。                               生後9ヶ月のある日。
私の腕の中で、長男は静かに息を引き取りました。

長男と共に、私の心も死んだ。そう感じた瞬間です。


お金のことも、現実だった

妊娠中、つわりもキツく点滴を受けながら働き。夜勤もこなしてました。
お腹が大きくても、働かざるを得なかった。

長男の入院中は、付き添いの駐車場代や病院での飲食代がどんどんかさんで。
死後はお葬式やお墓の準備で、予想外のお金も出ていきました。

そんな中。すごく良い住職さんに出会えました。
供養料を抑えてくれたのです。
金額を知った住職の奥さんが怒り出すほどでした。
でも住職さんはその時「若い子どもを亡くした夫婦からお金なんて取るもんじゃない!」と庇ってくれました。

あの時の優しさは、今もずっと忘れられないです。本当に救われました。


そして私は、また働き始めた

なので生活の面は待ってくれなかった。
お金も必要だったし、気持ちの整理もできなかった。

そして、長男を見送ったあと私は全く眠れなくなった。
毎晩、目を閉じても涙ばかり出てきて。いつも胸がドキドキしてて。
心療内科に通って睡眠薬を飲みながら、なんとか仕事に復帰した状態でした。

今思えば、完全に無茶だったなって思います。
でも、あのときはもう悲しすぎて。ちゃんと考える余裕なんてなかった。

とにかく働きました。
福祉の現場に戻って。人の命と向き合いながら。
身体が止まると心が止まってしまってたから。空っぽの自分が怖かったから。

“働くしかなかった”――
だからこそ、私はまた歩き出せたんだと思う。


👉次回(第2章)
「子どもを見送ったあと、私は仕事に戻った|“働くしかなかった”現実」

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

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