長男を見送ったあと。ずーっと私の心は壊れたまま状態。
悲しみの底に沈んで、毎日がただただ辛くて苦しくて――息をしていることすらしんどかった。
この間の友人や同僚の妊娠や出産の報告。赤ちゃんの話題、街なかですれ違う親子。
心の底から、全部が本当に憎く思えてしまっていました。他人の子の顔なんてまともに見られなかった。
「世界中の全部の親子が引き裂かれてしまえばいいんだ!」
そんな醜い考えに本気でずーーーっと。とらわれていた自分が大嫌いでした。

毎日がつらい!つらすぎる!苦しい!!!
毎日毎日、生きているのが苦しくて苦しくて・・・。辛いだけ。
でもやっぱり。 自分はずっと、長男に「がんばって」「生きて」「負けないで」と言い続けていたから。
長男の前で顔向けできない親になりたくなくて。その意地だけで、踏ん張って生きていました。
でも、ある時気づいたんです。
この悲しみは、長男をそれだけ深く愛していたからこそ生まれたものなんだから。だからどんなに悲しくても仕方ない。当然だ、と。
よく「我が子に何かあったら生きていけない」といいますよね。 でもね、現実は「何か」があっても親はその後も生きていかなきゃならないんです。 それこそ、何より辛いんですよね。
そんな地獄のような日々を過ごした約1年後――私は新しい命を授かりました。
リーリーの妊娠です。
嬉しかった。心から。
でも、同時に思ったんです。

このお腹にいるのは長男じゃないんだよね・・・・
当たり前だけれど。長男にはもう会えない。それを再確認させられるような妊娠期でした。
それでも、リーリーが私のお腹に来てくれたことは、
私を深い悲しみの沼の底から少しずつ魂を引き上げてくれました。
妊娠中はとても順調でした。
けれど出産の2か月前、今度は実母が倒れました。
肝臓に病が見つかり、緊急入院。
私は毎日、母の見舞いと仕事、自分の出産準備に追われる日々を過ごし出産に挑みました。
母の退院直後にリーリーの出産。
予定帝王切開で、今回は私も特に異変もなく無事に出産。 念の為のリーリーの心臓の検査も無事クリア。
ホッと胸をなでおろしたのを覚えています。
私は一人っ子。父は昭和の男性で家庭のことは一切手出しはしません。なので母のことが心配で、出産直前でしたが実家へ引っ越しし同居スタート。
こうして、育児と看護、そして家事の三本立て生活がスタートしたのです。
はてさて。またまたお金の無さに負けて。 そんな状態でも半年後には職場にも復帰。
リーリーは職場の託児所へ預けて、私は再び働きながら家事・育児・母の看病。 リーリーは夜泣きもひどく。よく熱を出したり、流行病をすぐもらったりと。夜間休日診療に毎週のように駆け込む日々でした。でも毎日可愛さに癒やされる日々でした。
しかしながら今でもあの日々はもの凄かったなぁ思います。

自分で思うけど。よくあんなこと、やってたなぁ。
さらにそのうち、母にかなり進行した胃ガンが見つかりました。
緊急で手術を受けたものの、弱っていた肝臓に転移し、診断からたった半年で母は他界しました。
本当はもっと親孝行したかった。もっとそばにいたかった。
母は長男の出産から看病のとき、本当に私を献身的に支えてくれていました。
でも現実は――
毎週のように高熱を出し、解熱剤を飲みながら働いていたような私。通勤の帰り道にリーリーを連れて3日に一度。洗濯物を届けたりするのが精一杯。それ以上は無理でした。そして亡くなる3ヶ月前には退院し自宅療養。私はとにかく毎日をやりこなすだけの生活でした。
長男に続いて、母まで失い。
心が壊れそうな中で、そばにいて一番の支えになってくれたのはやはりリーリーです。
「ママ大好き!」と甘えてくれる姿に、私は何度救われたか分かりません。
子育ては、育てるだけじゃない。
私もまた、子どもたちと、母から、“愛されること”を学んでいたんだ――そう、心から思います。
母を亡くした悲しみは、もちろん大きかった。
でも長男のときと違って、「順番通り」だったから。
早すぎるとは思っても、どこかに納得できる気持ちがあったのも本当です。
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。
次回予告:第4章
そして私は、また命と向き合うことになる。
ギャンギャンの妊娠――それは、再び命の重さを試されるような日々のはじまりでした。
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