“働くしかなかった”から始まった、私の障害児育児|第2章

我が家の家族史

子どもを見送ったあと、私は仕事に戻った|“働くしかなかった”現実

長男が亡くなったその日、それまで受け取れた育児休業給付金は即日で打ち切られました。
私にとって育休は育てるための時間ではなく、「命を守るため」の日々。
そしてそれが終わった瞬間、お金の支援も終了しました。

育児休業給付金とは

育児休業給付金は、雇用保険に加入している労働者が育児休業を取得した際、休業中の所得を一部補填するために支給される制度。

支給対象者

  • 育児休業開始日前の2年間に、被保険者期間が12か月以上あること
  • 休業中、会社から給与の支給がないか、一定額未満であること
  • 1歳(条件により最大2歳)未満の子どもを養育していること
  • 支給額の計算方法
  • 支給額=休業開始時賃金日額 × 支給日数(原則30日) × 給付率
  • 「休業開始時賃金日額」とは、育児休業開始前6か月間の給与総額を180で割った金額です(ボーナス等は含みません)
  • 給付率と期間
  • 育児休業開始から180日目まで賃金の67%
  • 181日目以降賃金の50%

子どもが亡くなった場合の取り扱い

対象となっているお子さんが亡くなった場合、育児休業そのものが終了と見なされるため、育児休業給付金はその時点で支給打ち切りとなります。

厚生労働省の通達やハローワークの運用でも明確にされており、「育児の必要がなくなった場合(死亡等)は、育児休業は対象外」とされています。

ポイント

  • お子さんが亡くなった「その日」が、育児休業終了日となる
  • 給付金もその日をもって支給終了(途中までの日割りになる場合あり)
  • その後は復職、または別の休暇制度の利用が必要

必要な手続き

  1. 会社(人事・労務)に連絡し、育児休業終了を届け出る
  2. ハローワークまたは会社を通して給付金打ち切りの手続き
  3. 未払い分がある場合は、日割り計算で支給されることも

心が追いつかないときには

お子さんを亡くした直後に手続きを求められるのは、とても辛いことです。
精神的なサポートが必要なときは、会社や自治体の相談窓口、社会保険労務士に相談することも検討してください。

また、地域のハローワークでは個別相談に応じてくれることもあります。

残されたのは、たった5日間の忌引だけ。
私はそのわずかな猶予を使い、通夜、葬儀を終えて。長男の死から6日目には、職場へ復帰しました。
手当が付くので、夜勤も普通に入りました。

「復帰が早すぎる」…でも、あのとき私は

職場に戻った私を見て、周囲は「無理しすぎじゃないか」「復帰が早すぎる」と思っていたかもしれません。
実際、そう言ってくれた人もいたように思います。
でも正直なところ、当時の記憶はあまり残っていません。

それほど、私の心は深い悲しみに沈んでいました。
考えることも、感じることもできないまま、ただ身体だけが動いていたように思います。
今思えば、あの頃の私はまるで壊れたロボットのようでした。

四十九日までは実家から職場へ通勤していました。
通勤の車内で涙を流しながら、何とか日常をこなしていたと思います。

心と身体、すべてが壊れかけていた

働いてはいたけれど。体調も精神状態も、最悪としか言いようがありませんでした。

夜は眠れないのに、不思議と眠気も感じません。
食べる気力もなく、味も感じない。
日中は勤務をこなしているのに、職場を一歩出た瞬間から涙が止まらない。
通勤中の車の中でも、お風呂に入っている時でも、寝る前の布団の中でも。ずっと泣いていた事だけは記憶にあります。

夜勤明けに自宅へ戻り、ようやく睡眠薬を飲んで眠りにつきます。
でも、それ以外の夜はまったく眠れず、そんな生活が1年以上も続きました。

<span class="marker-red">なちょぱ</span>
なちょぱ

1週間に1晩しか眠れない💦

あれから18年が経った今でも、夜眠れない日が多くあります。
“悲しみは時間が癒してくれる”なんて言葉がありますが。なかなかそんな風にはいきませんね。

お金だけじゃない。「働くしかなかった」理由

職場に戻った最大の理由は、やはり経済的な事情でした。
出産後は本来、半年で職場復帰する予定。でも長男の入院などが長引き、育休は3か月延長されていました。
その間に付き添いの病院での食費や駐車場代、葬儀や墓購入(墓地は元々あった)の費用がかかり、家計は限界に近づいていました。

しかも、前記したように育児休業給付金が長男の死亡と同時に打ち切り。
金銭的には、もう後がなかったのです。

でもそれだけではありませんでした。
家にいると、ただただ泣くだけ。
目の前の現実に押しつぶされ、動けなくなりそうだった私。「お金のため」という理由を盾にして、無理やりでも前に進もうとしていたのだと思います。
お金を言い訳にしてでも。何かをして動いていないと、壊れてしまいそうでした。

心に突き刺さった“言葉たち”

そんな中、私の心をさらに追い込んだのは、周囲の“言葉”でした。

  • 「落ち込んでばかりじゃダメ」
  • 「泣いていても何も変わらない」
  • 「次の子ができたら忘れられるよ」
  • 「子どもを亡くすなんて、前世で悪いことでもしたんじゃない?」
  • 「病気で生まれるなんて、(長男や親が)前世が悪人だったのかも」
  • 「名前が悪かったんじゃない?」
  • 「親の悪いところを持っていったんだよ」
  • 「神様が可愛くて連れて行ったのよ」
  • 「そんなに親が泣いてたら、成仏できないよ」

ひとつひとつの言葉に、心が張り裂ける思いがしました。
そして私は、さらに自分を責め続けました。

「なんで? どうして? 何が悪かったの? 私のせいなの?」
「どうすれば長男は助かったの? どうすれば戻ってきてくれるの?」

そんな問いに、答えなんてないのは分かってた。
それでも、頭の中では問い続けていたのです。止められなかった。

「働くしかなかった」――その言葉の裏側で

私は福祉の現場に戻りました。
命を見送った自分が、また命と向き合う仕事に就く。

それは、とても苦しくて、でも、どこかで救いもあった気がします。
「働くこと」でしか、自分を保てなかった。
だから私は、働くしかなかったのだと思うのです。

けれど、本当は。                                      産まれた直後に病の判明した長男に「頑張れ!頑張って!」とだけ言ってきたから。        「辛いよね。あきらめていいよー。」なんて。絶対に。絶対に言えなかったから。

親の私が踏ん張って生きていく姿を見せなきゃ。情けなさ過ぎてあの世に行った時に、顔向けできないじゃん!という思いで。ただガムシャラに親の意地っぱりで。子どもにカッコいい背中を見せたい!だけだったと思います。

今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。


👉次回(第3章)
「実母のがんと介護、そして新たな命」

――悲しみの中、また新たな喜びと試練とが訪れました。

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